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あのねの会 会報より <出生から告知の体験談>

 平成4年4月4日が娘の誕生の予定日でした。
3月14日の検診で異常が見つかり急に帝王切開することになりました。
当日、通院していた病院の手術室が使用できないとのことで急遽、救急車で某大学病院へ転送されました。
私はといえばとても元気で前日まで仕事をしていました。娘の“おむつ”も帰ってから干そうと洗濯機に入れたままでした。
手術の順番を待つ間に陣痛か始まり、産まれた時には15日になっていました。
普通分娩で産まれた兄達二人の時は元気な産声が聞こえたのに帝王切開は苦労した私より主人の方が先に娘に会えるなんて・‥と思いながら念願かなった女の子の誕生でルンルン気分でした。
後で産科医から聞いたところ娘は首に臍の緒を十文字に巻いて仮死状態だったそうで、酸素吸入をしてようやく息を始めたのだそうです。
新生児室で兄二人とのミルクの飲みっぶりや泣き方を比べると弱々しく「女の子だからかな?」と思って看護婦さんに聞いても「?」何か違う!!二週間の入院中に検査絵果が判明しました。
病院から主人に適格が入り担当の小児科の先生から「お母さんにはいつ知らせますか?」の問いに「今、知らせましょう」と主人は答えたそうです。
私はそれを予感したのか涙用の大きなタオルを持って告知を受けに行きました。
「○○というこの“田舎”でどう育てて行けばいいの?」という私の不安に思いもかけずM先生から○○病院に転勤することを伺い本当に暗闇に光りが見えた様な気がしました。
M先生の「先に行って待ってますから」の言葉に私達だけでなく理解して下さる方が側に居て娘を育てられるのだなあと感じてしまいました。
退院時に心房、心室中隔欠損があると聞いても、もうそんなにビビらなくなっていました。
恐怖という心のスイッチを切ってしまったのかな?そんなことができるのかな‘′ なんて思っていました。
 3・4ヶ月児の集団検診でダウン症の各年齢時における医療ケアの表と一緒に「○○ちゃんはお二人のかけがえのないお子さんです、大切に育てて下さい」とM先生から手紙を頂きました。
○○の病院に入院中には保健師の高瀬さんにもお世話になり、一緒に泣いてもらったり、本を貸してもらったり、また旧こやぎの会も紹介してもらいました。
リハビリ科のY先生の所では「ダウンの子はスケバンにならないし、大きくなれは交通機関も利用できるし、会話もでき、簡単な仕事もできるようになる。また障害があることについては、必要な人にだけ伝えれば良しヽ」等々のとても良いアドバイスを頂きました。
それから未熟児の赤ちゃん体操を習って3月28日、雪の降る中を退院しました。
私の母は1「母体がもっと元気になってから告知して欲しかった」と言うので私は母に「今、知って良かったと思う、赤ちゃん体操など娘にしてあげられることが見つかったのだから、娘が生きていて私が何かしてあげられることがあるのは幸福なことだと思う」と言うと母も納得していました。
 当時、小学四年生だった長兄へは私達の入院中に主人から娘の障害について伝えたそうです。
その時の反応は「でも愛は奇跡を生むんでしょ」とテレビドラマの台詞を言ってたそうです。
長兄が障害についてどれだけ理解していたのか分かりませんがこのクサイ言葉に親の私達はとれだけか助けられました。
次兄には当時小学校一年生だったこともあり暫くしてから話そうと思い、二、三年だったある日、教育テレビのダウン症の子の出演する番組を見せた後「○○ちゃんもそうなんだよ」と告げると「へ−、そうなん、知らんかった」と繰り返すので私か「ダウン症ならだめなの?」と聞くと「そんなことはないよ」と言っていました。
同じクラスにグウン症ではないが障害を持つ子がいたので理解し易かったと思います。
勿論、今まで通りとても娘を可愛がってくれています。
退院して暫くすると親類の養護学校の先生からグレンドーマン著作の「親こそ最良の教師j等の障害児に関する本が届きました。
リハビリの先生が言っていたように必要な人には伝えておいた方が情報は集まるのだなあと思いました。
これらの本は兄達が小さい頃知っていれは彼らも天才児こなっていたのになあと思う様な夢を与えてくれる本でした。
産後の検診で母胎内での娘の異常に気づいてくれた産科医が「障害があるのはエコーじゃ分からなくて・‥」と言われた。
 私はその時「分かったらどうなの?障害のある子は生きていたらいけないの?」なんて考えていたら涙が出てきた。
今、話題の出生前診断についても「必要なし」と思います。
いつかの講演で聞いた「障害はアンラッキーだけどアンハッピーではない」という台詞は本当だと思います。
<誕生>
平成3年11月9日、私の実家のある○○県の個人病院で生まれました。
逆子のため、最後まで悩んだあげく帝王切開でしたが、想像を上回る痛みに、子供の事より自分の事に必死だった記憶しか残っていません。(ごめんね!!)。
実際、翌日には息子だけ小児病院に入院してしまったので、産まれた頃の記憶はほとんどありません。
長女の時には山ほどある新生時代の写真が、息子には1枚も無く、今でも後悔していることのひとつです。
身長45cm、体重2335gと、ちょっと小さな赤ちゃんでミルクが飲めなくてチアノーゼが出て・‥と明らかに”何かある”という状態、前述のように息子だけ入院ということになったのです。
「赤ちゃんの状態が悪いから」と聞かされた時、「産まれた時、ちゃんと泣いたし、まあ大丈夫、その内元気になって退院してくるだろう」とのんきに構えていた事も、申し訳なく思っています。
その当時の実家周辺はまだ高速道路が整備されていなく(今でもそうですが)唯一開通していたのが我が家から小児病院へ行く区間で、その後1ヶ月半に及ぶ入院生活を考えた時、とてもラッキーな事でした。
帰省した時、同じ道を走りながら「よく病院に通ったな−」と懐かしく思うことがあります。
<告知>
入院して1ヶ月半、退院の日が決まり「必ず御両親で来て下さい」と言われ年末の慌ただしい日々の中、当時住んでいた○○県から徹夜で帰ってきた主人と私を待っていたのは“ダウン症候群”と言う告知でした。
その瞬間、頭の中が真っ白になった事、先生の見せてくれた染色体の図が脳裏に焼き付いた事、多分一生忘れられないと思います。
ようやく出た「どんな事に気を付けて育てればいいですか」と言う言葉に、「お姉ちゃんと同じように育て上げて下さい。病院でも定朋的にフォローしますし、親の会もありますよ」と言う返答があり、ちょっとだけほっとしたような気がします。
とは言え、ダウン症に関する具体的な説明は一切無く、私や主人にしても“ダウン症=知的障害”程度の認識しかなかったものだから、身体面で注意しなければいけない事があるということなどろくに知らず、結構手荒に扱ってしまったことに後で気ずいて、後でぞ−つとしたこともありました。
数年後、別の医師にそう育う事を話したら、「一度に何もかも話してしまうんじゃなくて、お母さんや赤ちゃんの様子を見ながら少しずつ話していった方がいいと思う。何かあったら私の方から伝えるし、その為に定期的に通院してもらっているんだから」と言われ単純な私はすっかり安心しきっていたのですが、親の会等でロコミで入って来る様々な情報に”先生に任せておけば大丈”と言う信念がフラフラしていたのも事実です(これま今でも変わっていなしいかな?)。
“お母さんは医学書なんて読まなくてもいい”と言うのもその先生の持論で、こちらの方は今も忠実に守っていて、忠実過ぎて”難しそうな本には手を出さない”と言う独自のノレールまで作ってしまってます。
 告知の話から少しづれてしまったようですが、何れにしても信頼できる医師に巡り会えると言うのは、育児をしていく上で一番の支えになるんじゃないかなと思います。
告知の時の医師の言葉一つで前向きにも後ろ向きにもなれるし、育てていく勇気も沸いてくるし・・・そう言う点でいえば、私は幸せだったなと思います。
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